百人一首第5首、猿丸大夫の「奥山に」。
紅葉の中を踏み分けて進む足音と、どこからともなく聞こえてくる鹿の鳴き声。この歌は、秋の山の奥深くで耳にする鹿の声を通して、季節がもたらす静かな悲しみを描いた、代表的な季節の歌です。
この記事では、和歌の背景や表現を丁寧にひもときながら、日本語・英語・ドイツ語の多言語訳で、その情景を味わっていきます。
和歌の基本情報と多言語訳

では、原文と多言語訳から、この歌が描く情景を見てみましょう。
和歌(原文)

奥山に
紅葉ふみ分け
なく鹿の
聲きく時ぞ
秋は悲しき
— 猿丸大夫
英語訳
Deep in the mountains,
treading through fallen crimson leaves,
I hear the cry of a deer—
and in that moment,
autumn feels unbearably sad.
ドイツ語訳
Tief in den Bergen,
durch rotes Laub schreitend,
höre ich den Ruf eines Hirsches—
in diesem Augenblick
wird der Herbst von Traurigkeit erfüllt.
現代語訳と歌が描く情景
山奥に紅葉を踏み分けて入っていくと、
鹿の鳴き声が聞こえてきて、
秋とは悲しいものだと感じる。
「奥山に」はどんな情景を描いているのか
人の気配がほとんどない、山の奥。足元には、踏み重なる紅葉。その静けさを破るように、鹿の鳴き声が響いてきます。
鹿は、特別な説明を持たずとも、古くから「秋」を象徴する存在として受け取られてきました。その声を耳にした瞬間、作者は「秋は悲しい」と感じる。
理由を語ることなく、ただその感情だけを置いていく――この簡潔さが、この歌の強さでもあります。
作者と歌が詠まれた背景を深掘り
作者について:伝説に包まれた歌人・猿丸大夫
猿丸大夫は、百人一首の中でも、とりわけ実像がつかみにくい歌人の一人です。詳しい経歴はほとんど伝わっておらず、実在の人物であったかどうかについても、古くからさまざまな説が語られてきました。名前や官位、活動の時期についても確かな資料は少なく、謎の多い存在です。
それでも、「奥山に」は、そうした不確かさを感じさせることなく、古くから人々に親しまれてきました。紅葉を踏み分ける足音と、鹿の鳴き声という、ごく限られた要素だけで、秋という季節の深い感情を立ち上がらせています。百人一首の中でも強い印象を残す一首として、時代を越えて読み継がれています。
作者の姿や人生が見えなくても、一首の歌が確かに残る。その事実こそが、この歌の力であり、猿丸大夫という歌人が、千年を超えてなお記憶されてきた理由なのかもしれません。
歌が詠まれた背景:鹿の声と秋の感情
秋になると、鹿は繁殖期を迎え、甲高い声で鳴きます。その声は本能的なものでありながら、人の耳にはどこか物悲しく響いてきました。この歌では、紅葉・奥山・鹿の声という要素が重なり合い、自然と「秋の悲しさ」が立ち上がってきます。
ここには、人の内面を細かく説明する言葉はありません。
自然の中に身を置き、その一部として耳に入ってきた音が、そのまま感情へと変わる――そんな体験が、そのまま歌になっています。
千年の時を超えて:管理人独自の解釈
エッセイ:音が先に、感情を連れてくる
紅葉を踏み分けて進む足音の中で、ふいに耳に届く鹿の声。その声を聞いた瞬間、音に触れた体が立ち止まります。
その後で、ようやく心が追いついてきます。「今の気配は、秋だったのだ」と。そして、その気配が、どこか胸に静かな重さを残していく。感情は、理由を伴って生まれるのではなく、体験のあとから、そっと形を与えられるものなのかもしれません。
この歌は、鹿の声を「悲しい」とは言わず、なぜそう感じたのかも語らない。ただ、その声を聞いた時に、「秋は悲しき」と感じてしまった事実だけが置かれています。
だからこそ、この歌は、読む人それぞれの記憶と静かに重なります。誰かが聞いた鹿の声、誰かが立ち止まった山道、その時に胸をよぎった、名づけられない感情。この歌が伝えているのは、秋に触れた一瞬の感覚そのものなのだと思います。
「奥山に」へ応える一首(自作短歌)
落葉踏み
なく鹿の声
立ち止まる
名づけぬままの
秋のかなしさ
— YUKI
原歌が描くのは、鹿の声を聞いた「瞬間」に立ち上がる秋の感覚です。この返歌では、その一瞬を、言葉で説明するのではなく、立ち止まった気配として写し取りました。またここでは、立ち止まったのが歌人なのか鹿なのか、そのどちらも同時に成立するよう、意図して詠んでいます。

この第5首は、秋という季節が、人の心に触れる瞬間を描いた歌です。静かな山の空気と、遠くから響く鹿の声が、読む人の中の「秋」を、そっと呼び覚ましてくれます。
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※絵札画像出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)


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